池田元 荒川十太

豊島消防団第1分団での活動報告

班長 池田 元


特別区消防団員地域防災力向上特別研修



研修レポート初日 阪神淡路大震災記念、人と防災未来センターを訪問しました。ビデオ映像や展示されている物はホームページをご覧ください。たくさんのボランティアガイドの方々が、被災体験を交えて解説してくれました。中には外国人観光客に英語でガイドしているボランティアもおられました。
http://www.dri.ne.jp


わたしたちが東京から来た消防団の研修団体と知って真剣に防災の重要性を訴えてこられました。

セミナールームで現役、神戸市消防局の香西さんの講習を受けました。震災当時は25歳でレスキュー隊員25人の同僚と当直中だったそうです。昔は個室ではなく畳の上で雑魚寝だったそうですが、あまりの揺れで転がされて起きたそうです。いったい何が起きたかわからなかったと言っていました。

消防署は一瞬で半壊し車両も転倒したり、落下した資材で出動できなかったりしたそうです。電話回線は完全に不通となり、パニックになった市民が大勢消防署に殺到しました。「助けてください!」と怪我人を消防署に連れて来た人もおり、大混乱が起きたそうです。香西さんが強く訴えたいことは「いざというとき市民は消防署や消防団の制服を着用した人に、すごく頼ってくる」ということだそうです。

阪神淡路大震災の揺れはわずか11秒間でした。それに耐えられなかった建物は全壊し、耐えられた建物は残りました。消防署員は道路も寸断された中でもどうにか緊急出動しました。当時はまだトリアージの概念がなかったので、片っ端から怪我人を助けましたが、いま思えば非効率な救命活動もしてしまいました。

交代時間に消防署にもどって仲間と顔を合わせても、あまりに悲惨な状況を目の当たりにした隊員たちは誰ひとり口をききませんでした。

香西さんは自宅のことは放置したまま救命活動を続けました。しかし自分たちの力の限界を感じて、深いところに生き埋めになっている人よりも、浅いところに生き埋めになっている人を優先するようになりました。必死でやっているのに、あと回しにした人の家族からは罵倒され、石を投げられました。夜になると火災が拡大し始めて香西さんたちは消火活動に追われました。

消防団員たちは地域のパトロールを始めました。というのは夜になると泥棒や痴漢など犯罪者が出没し始めて、被災者どうしの喧嘩もあちこちで起き、街は大変治安が悪くなったのです。防犯パトロールは本来の消防団の任務とは違いますけれども、そんなことを言っている場合ではなかったので、誰ひとり寝る暇もなくがんばりました。

香西さんが経験から言ってくれたことですが「震災直後の消火栓はあてにするな、内部が破壊されていて水が出ないことも多い」ということを肝に銘じておかなければなりません。まず水を出してみてからホースをつながないと、水の出ない消火栓からホースを伸ばしてしまったらお話しにならないとのことでした。

ひと口に防災減災の必要性を言いますけれども、阪神淡路大震災のような災害はいつなんどき起きるかわかりません。最初の大揺れでこわれない、倒れない、崩れない、落ちない対策をしておくことと、あとはいざ大地震が起きたら、消防署員や消防団員にはやるべきことが山ほどあって、それが何日も何日もずっと続くという心構えが肝心です。香西さんの講習は以上でした。

次にバスで移動して、東遊園という緑地からメリケン波止場まで震災の遺構を歩きました。ここでもボランティアガイドの人が案内してくれました。東遊園は震災のルミナリエの会場となるなど阪神淡路大震災の追悼会場となっています。



神戸港の経済的損失は甚大で日本経済全体の衰退にもつながったそうです。震災前の神戸港は東アジアの中心でしたが、BCPの概念、すなわち災害時における事業継続対策がなかったため、長年にわたって港湾の機能が麻痺してしまい、その間に韓国や中国にすっかり東アジアの中心的な役割を取られてしまって没落したのだそうです。もう神戸には船荷が来なくなって倉庫が要らなくなったので、今は倉庫の空き地にどんどんアリーナ(劇場、娯楽施設)を建てていて、すっかり観光地化してしまっているそうです。大震災に備えた政治的な戦略作りも大切ですね。

遺構を案内してくれたガイドさんは震災当時の街の写真を見せて街角の復興のようすを現在と比較して教えてくれました。また大震災で生き埋めになった35,000人のうち、消防署員、警察官、自衛官が救助した数が8,000人だったのに比べて、近所の人たちが協力して助けた数が27,000人だったので、共助の精神がいかに大切かという話をされました。


神戸では倒れかけたビルも、全部取りこわして新しく建てただけでなく、歴史と伝統のある建物を保存するために、ビルの横にこのように鉄骨で補強したものも多くありました。


研修レポート 2日目 2日目は淡路島の北淡震災記念公園に移動しました。移動バスの車中ではビデオ講習を受けました。東京消防庁が作成した消防団員募集のビデオで、新入団員が次々に登場して入団動機を語るというものです。

https://www.nojima-danso.co.jp/


北淡震災記念公園では最初にセミナーハウスに入りました。そこで米山総支配人の講演を聞きましたが、こちらではそれを『震災の語りべ』というそうです。米山さんは当時地元の消防団員だったそうです。下記は旧北淡町の記録です。2005年に淡路市に合併されたので町勢は震災当時のものとなります。人口11,214人。面積51.07平方キロメートル。世帯数約3,700世帯。その被害状況、全壊1,057棟。半壊1,220棟。一部損壊1,030棟。死者39名。重傷者59名。軽傷者811名。

救出作業の推移。6時30分 災害対策本部設置。約300名が生き埋めになったが、当日のお昼すぎには全員救出。近所の人は誰がどの部屋で寝ているかまで知っていた。565名の定員+ OB約500名を加えると、人口の約1割が消防団として活動。17時ごろには行方不明者ゼロ。

米山さんは大震災当時29歳で、奥さんと2歳の娘さんと3人で4階建マンションの4階に住んでいたそうです。大きなベッドで3人で川の字になって寝ていました。衝撃音と奥さんの叫び声で目が覚めましたが、奥さんはとっさに赤ちゃんの上におおいかぶさってかばい、米山さんはさらに奥さんの上からおおいかぶさって2人をかばったそうです。

はじめは地震だとは思わず、ダンプカーがマンションに突っ込んで来たと思ったそうです。すぐに揺れがおさまったので、枕元のスリッパを履いて寝室のドアを開けようとしました。しかし開かないので、蹴破ってダイニングキッチンに出てみると、食器棚が倒れて食器が飛び出し、粉々に割れて床に散らばっていました。

防災ポイント → スリッパは枕元に。できれば笛も水も。

マンションの外は真っ暗でしたが、地震だということはやっと分かりましたので、奥さんと娘を近所の小学校の体育館に避難させました。そこにはすでに何人かの住人が避難していました。防災ポイント → 消防団員は家族を真っ先に避難所に連れて行くこと。これが近所の人に自分たちも自宅から避難しなければならないというサインになる。

近所の人から「マサユキ君の実家、潰れてしもうとるで!」と教えられて、実家に駆けつけてみると、きれいに潰れてしまった家の前に両親と祖父が呆然と立ち尽くしていたそうです。実家の家族が、潰れた家の中で寝ていたのに無事だったのは、屋根が崩落したのを洋服ダンスがいっとき支えたからだそうです。阪神淡路大震災ではタンスが倒れて挟まれた人もいれば、父母のようにタンスが天井を支えて助かった人もおり、まさしく運次第だったそうです。防災ポイント → 寝室にタンスが置いてあっても良いが、自分自身に倒れかかってこないように固定しておくこと。

米山さんの声を聞きつけた隣家の人が「マサユキ君!マサユキ君!」と、金切り声で助けを呼ぶので行ってみると、隣家も倒壊しており、瓦礫の中でその家のおばあちゃんが、まるで漫画のようにコタツに入ったまま固まっていたそうです。米山さんはおばあちゃんも体育館に連れて行ってから分団庫に行き、そこに置いてあった法被と長靴を身につけて救助に出動したそうです。防災ポイント →  このあと消防団員には山ほどやることがあって全く帰れなかった。大震災のときには出動が長丁場になることを覚悟すること。

最初の任務は救助と防火活動だった。上記のとおり北淡地区は震災前から消防団員の数が多く、OBも元気だった。したがってとても初動が良く、火災もなかった。しかし隣りの地区では生き埋めになった主婦が、あとから発生した火災によって生きたまま焼け死ぬという悲惨なこともあった。その地区では消火栓から水がでず、やむなく海水を汲み上げたが消火が間に合わなかったのである。

消防団で活躍したのは大工さん。生き埋めになった人の救助が手際良く進んだ。次が電気屋さん。大震災直後からあらゆる電線が切れて火花がパチパチ散っているのを手際良く切って行った。次にガス屋さん。淡路島はプロパンだか爆発しないようにガスの元栓を次々に閉めて行った。全員が「とにかく火が出たら終わりや!」を合言葉に崩壊した家々を始末して回った。

経験でいうと新しいものでも役立たずということはある。うちの消防団でチェンソーが一台だけ新装備されていて、救助作業にとても役立つと言われ操作の訓練もしていた。大震災直後さっそく持ち出して倒壊した家屋に使用したところ、金釘と鉄筋に当たってチェンソーの刃がダメになり、たちまち使えなくなった。実際に役立ったのはみんなの家にあった手鋸、スコップ、クワである。新装備をアテにしてもダメだった。 

救助作業が一段落したら、そこから消防団は地域の見回りに忙殺された。見回りはずっとあとあとまで長く続いた。まず行方不明者の捜索、これは地域内の絆が強かったせいで、夕方にはチェックを終えた。昔の町会名簿や民生委員の名簿には克明な情報が出ていたので、行方不明者のチェック時にとても役立った。

次の見回りでは半壊した家屋に居座っている人たちを避難所に誘導する仕事であった。家が潰れそうになっているのに、避難しようとしない人がたくさんいて、消防団では3人一組になって「逃げてください、逃げてください」と頭を下げて回った。たいへんだった。報道されていないが実際には余震がひっきりなしで、傾いた家屋にいたら危なかったのである。

避難所でもいつまでたっても消防団にはやることがあった。救援物資や弁当を配るのも消防団がやった。最初の1日2日はみんな他人に優しくて、弁当の配給でも「私はいいから、子どもやお年寄りに先にあげてな」などと言っていた人たちが、長い避難生活を送るうちには我先に弁当を取ろうとするし、すでにもらったのに2回も3回も欲張って取りに来るようになった。

また避難所の仕切りも最初は何もなかったのに、次第にダンボールで壁を作ったり、本を積み上げたりして、隣りとの仕切りを作り始めた。そうなると隣りのいびきがうるさいとか、夜中に何回もトイレにいくといったことも争いの種になり「なんとかしてくれ!」と、消防団員は巻き込まれてしまった。避難所では本当に嫌なことや醜いことが延々とつづく。それが大震災である。

復旧復興に活躍するのも消防団だった。他の地区では農業用貯水池が大震災直後から干上がったところがあった。数ヶ月間連日給水車で水を運んだのは消防団だった。大震災の後にずっと活動が続くと思えば、事前にやっておくべきことが見えてくる。まず住民への減災意識の啓蒙である。

教訓。「隣近所とのコミュニケーションの大切さ」「防災意識の重要性」「家屋の耐震」「情報伝達方法の確立」「災害に強いまちづくり」「心のケアの重要性」

減災のためにやっておくべきこと。「飲み水を入れた容器は台所と玄関口、そして外から取り出せるように窓の下に置いておく」「家族の避難場所は複数決めておく。一箇所だけだとそこがダメだった時に慌ててしまうから」「窓ガラスの飛散防止フィルムは必須条件、しかも経年劣化するので10年で貼り替えること」「自家用車のガソリンは常に十分に入れておくこと。災害時には移動に使用するだけでなく、発電機や空調がわりにも使用できるから」

「災害用伝言ダイヤル171を練習しておくこと」171は被災地の方の電話番号をキーにして、安否等の情報を音声で登録・確認できるサービスです。サービス内容についてはNTTのウェブサイトでご紹介しています。

防災減災は必ずできる。災害は忘れたころにやってくる。忘れたら地獄が再来する。米山総支配人の講演は以上です。講演のあと、野島断層保存館に行きました。

https://www.nojima-danso.co.jp/nojima/


以上で今回の研修報告を終わります。資料館の展示のようすはインターネットでも見られますが、体験者のナマの話は聞けません。実際に現地で見聞きできて大変役立ちました。ありがとうございました。 2024.2.20